上弦の月

第86回 王最版深夜の一本勝負
お題「逢魔が時」「催眠術」

「――ちゃん。最原ちゃん、寝てる?」
「ん?」

 耳に心地よい声がする。ゆっくり目を開けば、橙色に染まる空が見えた。

(何してたんだっけ)

 ベンチから立ち上がろうとして、膝に置いてあった小説が落ちた。
 ああ、そうだ。僕は、小説を読みながら誰かを待っていたはずだ。

「最原ちゃん、どうかした?」

 声をかけられて、視線を目の前にうつす。僕の前には、少年が立っていた。白い姿が夕焼けの色で滲んでいる。
 ああ、そうだ。僕が待っていたのは、きっとキミだ。

「王馬くん」

 僕は少年の名前を呼ぶ。あやふやだった影が、じょじょに形を作っていった。

「お待たせ、最原ちゃん。帰ろうか」
「うん、そうだね」

 地面に落ちた小説を拾い上げ、鞄にしまう。そして、こちらを振り返って待ってくれている王馬くんの後を追う。

「そうだ、最原ちゃん。はい」
「え?」

 王馬くんから手を差し出されて、頭に疑問符を浮かべる。この手は何だろう? 何か王馬くんに渡すものでもあっただろうか?

「最原ちゃん、どうしたの? いつもみたいに手つながないの?」
「手?」

 王馬くんの手を見る。差し出された姿勢はそのままだった。ここに手を乗せればいいのか?
 ああ、そうだ。《いつもみたいに》手を置いてしまえばいい。
 ……本当に? いつもっていつだ? 僕と王馬くんが手をつないで帰ったことなんてあったか? お決まりの嘘か? いや、違う。そもそも、この目の前にいる王馬くんは――誰だ?

「キミは、誰?」

 疑問がそのまま言葉となって零れ落ちた。王馬くんの表情をよく見ようと目を凝らすが、なぜか顔がよく見えない。さらに、忍び寄る薄い闇が、彼の白い服を侵食し、背景との境界線を曖昧に見せていた。

「……はっ、何言ってるの、最原ちゃん。もしかして、疲れてる? 疲れてるなら休む?」
「休むってどこで?」

 呟いた後で、ふと、王馬くんの背後を見る。よく見れば、僕たちはホテルの前に立っていた。何で今まで気付かなかったのか分からないくらい、どピンクの看板が存在を主張している。

「ラブアパート? 王馬くん、こ、ここ、らぶほ、き、キミは一体何考えてるの?」
「それは、最原ちゃんが一番知ってるでしょ?」
「知らないよ! 王馬くん、寝ぼけてるの?」
「寝坊助で寝ぼけてるのは最原ちゃんの方でしょ? ほら、《起きて、最原ちゃん》」


 その王馬くんの言葉に、目を開いた。


「あ……れ?」

 電球の白い光が目を射る。霞む視界をどうにかしようと瞬きを繰り返すが、どうにも眩しい。

「はい、お疲れ様。どうだった? 総統様の催眠術」
「……催眠術」
「あー、よく分かってない? ほら、さっき言ったじゃん。《最原ちゃんが本当に望むことを知るための催眠術》だって。かけていいって言ったのは、最原ちゃんだからね。催眠術にかかってる間は、最原ちゃんが本当に行いたいことが、意識下で具現化されてたらしいけど」
「ああ」

 そういえば、そうだった気がする。あまりにも五月蝿かったから、どうせ大したことないだろう、と思って付き合ったのだ。まさか、入間さんの発明品を取り出されたるとは思わなかったけど。

(何か分かったのかな?)

 妙に機嫌が良さそうな王馬くんに嫌な予感がする。催眠術にかかったせいで、変なことを口走っていないといい。

「よし! じゃあ、最原ちゃん。帰ろうか」
「うん。……ん?」

 何故か王馬くんに手をつながれた。これは、何だ?

「えっと?」
「うん? 最原ちゃんは、オレとラブアパート行きたいんでしょ? だけど、今は手持ちがないからオレの部屋で妥協して欲しいんだよね。そして、オレの部屋に他人が入るためには、オレと身体の一部を触れ合わせとかなきゃいけないからさ」
「はっ? えっ、なっ」

 思いもよらない発言に動揺する。ラブアパート? 王馬くんの部屋?

「じゃあ、レッツゴー!」
「待って、王馬くん、待ってってば!」

 引きずられて歩きながらも、初めてつないだ王馬くんの手は、とても暖かかった。


(作成日:2018.09.23)

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