上弦の月

第154回 王最版深夜の一本勝負
お題「百人一首」

「やっぱり帰っちゃってるか」

 事務所の電気をつける。あたりを見渡しても、おじさんの姿は見えなかった。
 僕は、書類と上着を机の上に投げると、椅子に深く腰かけた。身体を椅子にあずけると、自然と瞼が閉じていく。

(……疲れたな)

 連日の探索作業が思いのほかこたえていたみたいだった。
 追いかけ続けて、三ヶ月。掴んだと思っては消える影。もう、心が折れかけていた。

『――というわけで、今日のテーマは「百人一首」です。最近は百人一首を題材にした漫画が流行ったこともあり、』

(ラジオつけっぱなしじゃないか)

 ラジオのリモコンに手を伸ばそうとして、近くにあったスマートフォンが目に入った。
 思わず、スマートフォンのロックをはずしてメッセージを確認する。……既読はついていなかった。

『思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪えへぬは 涙なりけり』

「はあ」

 ため息しか漏れない。王馬くんと僕のメッセージのやり取りは、三ヶ月前で止まっていた。
 色んな証拠品から、王馬くんは近くにいることは分かっていた。だけど、全然捕まえられない。

「あれ」

 頬を涙がつたっていく。
 自分が泣いていると認識した途端、急に胸が苦しくなった。

『〝つれない恋人を思い嘆きながら、このまま絶えてしまうと思った命はまだあるというのに、辛さに耐え切れずに涙はこぼれてしまうのだなあ〟』
『それ、どういう意味なんですか?』
『えっと、恋人が冷たすぎて、つらくて悲しい。こんなに苦しいのに命はなくならず、でも心が死んだように涙が流れちゃうなー、って感じらしいですよ』

「別にそんなんじゃない」

 小声で反論する。きっとこの涙は疲れからきているんだ。王馬くんは関係ない。
 袖を目に当てる。気持ちを落ち着けるために、ゆっくり呼吸を繰り返す。
 ガタガタッ。

「うん?」

 窓の方から、音がした。
 振り返ると、窓枠を握った王馬くんと目が合った。

「えっ?」

 王馬くんが窓ガラスを平手で叩く。
 僕は急いで窓を開けた。

「最原ちゃん、久しぶり! いやー、昨日までサハラ砂漠にいたんどけどさー、まさかのうちの車とサボテンがぶつかっちゃったんだよ!
 本当はもっと早く帰ってくるつもりだったけ、ど」

 僕は王馬くんの首筋に抱きついた。
 もう逃げ出さないように、しっかりと腕を回す。

「たはー、オレってば愛されてるねー」
「別にそんなんじゃない」

 王馬くんの手が僕の頭を優しく撫でていく。
 その手があたたかくて、瞼を閉じた。

「にしし、久しぶりにたーっぷり可愛がってあげるからね」
「……そういうのはいらない」
「えー」

 王馬くんの声が少しずつ遠くなる。
 揺れる意識の中、僕の身体が宙に浮いた気がした。

「ちゃんと一緒にいるからね、おやすみ最原ちゃん」



『次、ご紹介する句はこれまた恋の歌なんですけど、今までとは一転、ラブラブな感じで――』



(作成日:2020.01.12)

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